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Deadly Labyrinth : The Automatic Heart

[29]


 時は再び十八日目に戻る――

(よくやるよ……)
 リチャードは半ば呆れかえっていた。
 運動場中央で始まったアズサの独演会は、今や最高潮に達しようとしている。自らの偽物宣言に始まったことを考えれば、よくもまぁ、暴動も起こらず続いているものだと感心するしかない。
(いや……そうでもないな…………)
 階段の一角に腰を下ろしていたリチャードはポリポリと頭をかいた。
 迷宮に閉じこめられて今日で十八日目。一瞬で過ぎ去った七日間を別にしても、すでに十一日目に突入している。それなのに外部からの救援は兆候すら見せていない。そのうえ、SHOPのアイテムが有限であることがわかり、とどめとばかりに、そのことをキッカケとして、自治会の二大派閥が表立った対決姿勢を見せてしまった。
 これで不安を抱くなというほうが無理な相談だ。
 誰もが不安のはけ口を求め始めている。
 リコ派の面々でさえ、そのほとんどが運動場近くまで駆け下りているのだから、アズサ派にしてみれば、その思いはより強いだろう。無派閥も同様だ。ザッと見たところ、今やコロシアムに残るほぼ全てのプレイヤーが運動場の近くに集まっている。当然、そのいずれも真剣な表情でアズサの説法に耳を傾けているところだ……
 もっとも、その輪に加わっていないのは、なにもリチャードだけではなかった。
「ホントに教祖みたい……」
 呆然とつぶやいているのは、リチャードより四段ほど下の場所に立つリコの言葉だ。
 左右にインテリア系アイテムを積み上げた寝床の壁がそそり立っているため、リチャードから見ると黄金の袖無し鎖帷子を着込むリコの後ろ姿はちょっとした風景画のようにも見えた。それくらい、立ちつくしたままピクリとも動いていなかったというだけの話なのだが、ボンヤリと彼女越しに運動場を眺めていたリチャードは今更のように、これが悪趣味な白昼夢でないことを意識した。
「リーダー、話半分に聞いといてくださいよ」
 苦笑まじりにそう告げると、リコは眉間にしわを寄せながら肩越しに振り返ってきた。
 どういう意味?――と言いたいらしい。
 リチャードは頭をかきながら、伸ばしていた足をあぐらに組み替えた。
「ですから、あいつの言ってることが全部本当だとは限らないってことです」
「嘘なの?」
「まぁ、駅長にとってはすべてが本当だって可能性、無きにしろあらずですけど」
 そう答えると、リコはさらに怪訝そうな顔になった。
「えーっとですね……」
 リチャードは困ったとばかりに顔をしかめた。
「例えば……うん。駅長、子宮回帰願望がどーのこーのって言ってましたよね?」
 リコが頷くと、リチャードは即座に顔の前で手を振った。
「それ、嘘です」
「……なにが?」
「だから、子宮回帰願望ってやつは、あくまで昔の学説なんですよ、心理学の世界では」
「……昔の?」
「なんでもかんでもチ●ポとマ●コにくっつけたがる、頭でっかちな連中の戯言(たわごと)なんですよ。だいたい、心理学なんて新種の世界宗教ですしね。駅長はあんなこと言ってますけど、クリスチャンがブレインなんとかってやつを受けたら、最後にイエス様にでも会ってますよ。間違いなく」
「そういうものなのかい?」
 尋ねてきたのはリチャードの背後に立つジンだった。肩越しに振り返ってみると、ジンの傍らにはアケミの姿もある。どうやら、この場に残ったのは、この四人だけらしい。
「ジンさん、なんでここに?」
 リチャードはふと思い出したように尋ねてみた。
「えっ? あっ、いや、その……」
 ジンは困ったとばかりに傍らのアケミをチラチラと見た。よく見るとアケミの手は、ジンのローブをしっかりと掴んでいる。改めてアケミの顔を見上げると、彼女も困ったように頬を緩めながら首を傾げていた。
(アケミさんにも……)
 リチャードは目を細めた。
「ねぇ」そんな彼に、リコが改めて声をかけてくる。「まだよくわかんないんだけど」
「そうですね……」
 リチャードは疲れたとばかりに溜め息をついた。
「賭けてもいいですけど、駅長は自分で言ってることを心の底からすべて信じてます。それに、多分ですけど、ぜーんぶ駅長から見た時には真実と言える出来事ですよ」
「だったら――なんでリチャードはそんなにイヤそうな顔、してるわけ?」
「三つ子の魂、百までって言いますよね」
「で?」
「俺もね、駅長みたいに無駄な知識だけは豊富なんですよ。その無駄な知識がこう言ってるんです。修行僧は悟りを得たあとの修行が肝心――ってね」
「どういう意味?」
「……リーダー、まだわかんないんですか?」
「こう見えても普通の女子高校生なんだけど?」
「普通の?」
「普通じゃない」
「そういうことにしておきます」
「……リチャード」
 リコは不可解とばかりに眉間にシワをよせながら彼を見下ろした。
「もしかしていらついてる?」
「すんげーむかついてます」
 即答だった。
 その間にもアズサの説法は新たな段階に突入していた。どうやら運動場の中心で禁欲万歳と叫びたいらしい。さらに、人は簡単に堕落するから枷がどうの、心の鎖がどうの……
「ありがちなんですよ」
 リチャードがボソボソと語り出した。
「新興宗教(カルト)の教祖になる連中、どういう経緯でそうなるか知ってます? だいたいが、たった一度の神秘体験で“悟りを得た!”とか勘違いしちゃうんですよ。ところが、一度や二度、ちょっとした悟りを得るぐらいで本質が変わるわけが……ねぇ。喉元過ぎればなんとやらですよ、そのあたりも。あれですよ。ダイエットと一緒。やり始めは本気で思っても、しばらくたったら元に戻るっていう……それと同じなんですよ。ったく」
 彼の考察は正鵠を得ていた。


 アズサが“ブレインファンタズム”の衝撃を引きずったのは、わずか四時間ほどにすぎなかった。常人には驚くしかない結果だが、世の中には一度や二度の超絶体験を経ても、それがすべて「一時の気の迷い」で終わってしまう人々がいる。そのうえ、アズサは良くも悪くも狡賢い人間だった。
 カヲルを始めとする“帰依者”がすでにいたことも彼の暴走に拍車をかけた。
 本当に自分は選ばれた者だと考え出した。
 すると、自分が迷宮にいること、そのものに“大いなる意志”の力が働いていると考えるようになった。
 つまり、自分が最初に行おうとしていたことは、“大いなる意志”の命令だったのだ。
 よって、自分は王にならなければならない。
 仮想現実世界の王となり、迷えるプレイヤーたちを導かなければならない。
 必要なのは自分の中の“悪”と向き合う強さだ。
 自分は“悪”と向き合った。そして、乗り越えた。だが、他のプレイヤーたちは、まだ乗り越えていない。帰依者たちにしても、まだまだ乗り越えるというところまで言っていない。そう告げたら、帰依者たちは「その通りです」と答えた。「どうすれば本当の意味で乗り越えられるか教えて下さい」とも言ってきた。
 アズサにしてみれば、実に難しい要望だった。
「“真の修行”をおまえたちに施すのは簡単だが……間違いなく発狂するだろう。まずは仮初めの修行を続けるしかない。だが、私から見て、“真の修行”に耐えられる心の強さを持ったと判断した時は、必ずおまえたちに“真の修行”を施す」
 常人であれば絶句しかねない展開だが、帰依者たちはアズサの言葉を素直に喜んだ。
 この時点で彼らもまた頭の中のボタンを掛け違えていることがわかる。
 そもそも“真の修行”とは何であるか、誰も追求していない。
 一方、アズサにしても、その定義について深く考えていなかった。一応、彼の立場で屁理屈をこねるとすれば――黄金甲冑のNPC(?)から受けた“ブレインファンタズム”こそが、本当の意味での“ブレインファンタズム”であり、アズサが帰依者たちにかけた“ブレインファンタズム”は偽物である。ただ、アズサには本物の“ブレインファンタズム”、すなわち“真の修行”をかけることができる。そう考えての発言と定義づけることが可能だ。
 無論、ツッコミ所は満載だ。
 しかし、この程度の身勝手さで躓(つまづ)きを覚えているようでは、彼という人間を把握することなどできない。
「第一の段階に入るには、自らを律しなければならない」
 アズサは真顔で、帰依者たちに語りかけた。
「私利私欲を捨て、自らの求めるものも捨て、ただひたすらに自らの中の“悪”と向き合う覚悟を固めなければならない」
 そう告げていながら、アズサは十四日目の段階で帰依者のひとりと性交渉をもっている。アズサは「おまえが異性倒錯という“悪”と向き合うには、徹底的に現状を受け入れる必要がある」としているが、当然のことながら、これは単なる屁理屈にすぎない。救いようがないのは、言われた帰依者はもとより、言っているアズサ自身からして、その言葉を心の底から盲信していることだろう。
 他人を騙すには自分から、だ。
 笑うしかないのは、男性外装とはいえ、中性的な容貌を持つカヲルがアズサのお気に入りの座を射止めてしまった点だろう。彼女が性に対しても献身性を発揮したからこその結果だ。以後、カヲルは名実ともにアズサの第一の弟子の地位を手にいれることになる。
 さて――アズサの独自理論は十五日目の段階で、さらに発展していくことになった。
「“悪”と向き合うなど、そう簡単にできるものじゃない。だが、おまえたちには私がいる。必要に応じて、私が必ず、おまえたちに手を貸し、言葉を投げかけよう。私の助言が真実の覚醒に至るただひとつの光明であることを、おまえたちもいずれ、ハッキリと自覚するはずだ。無論、私の助言を無視してもいい。光無き暗闇の洞窟に籠もるのも自由だ。私には一本のロウソクを灯すことしかできない。ロウソクが灯すのは、茨の道だ。そこを通り、私のもとに進んでくるのも、立ち止まるのも、それはすべて、おまえたちの自由だ。私にできることは、一本のロウソクを灯すこと。それだけなのだから」
 これに対する帰依者たちの反応は言うまでもないはずだ。
 十九名に増えた帰依者たちは、アズサこそが迷宮に閉じこめられているという不安ばかりか、実在現実でそれぞれが抱えているリアルな問題さえ解決してくれるスーパーマンに思えた。宗教的なものに忌避感を抱いた者もイニシエーション――“ブレインファンタズム”の洗礼――を受けると、理屈を越えたところでアズサの帰依者になっていった。性的な“悪”と向き合う手段としてセックスが容認されていたことも、帰依者の増大に一役かっていた。不幸にも今の迷宮は異常美形ばかりである。おまけにセックスのあとの虚無感は、“ブレインファンタズム”を受けたあとの虚脱感と限りなく似ている。すなわち、それは“悪”と完全に向き合えなかったことの証明になりえた。
 こうしてアズサの“教団”は着実に帰依者を増やしていき――
「先生、あのストーンサークルはどことつながっているんですか?」
 十三日目の時点から、カヲルのそんな問いをキッカケにして、大きな活動目標も手にいれていた。
 なんとダークゾーンのストーンサークルは第一階層から第四階層までの各階層と結びつくレベル制限付きの「エレベーターゲート」とでも呼ぶべき代物だったのだ。とりあえず第二階層には二十以上、第三階層には三十以上、第四階層には四十以上のキャラクターレベルが必要だったため誰も実際に降りられなかったのだが、それでもエレベーターが存在するという事実が、一同のゲーマーとしての部分を強く刺激することになった。
「確か『Wizardry』にもあったよな?」
「あった、あった。ダークゾーンの奥に四階まで通じてるエレベーターが」
「だったら四階から九階までつながってるやつも?」
「ブルーリボンがねぇだろ」
「コントロールルームのモンスター倒せば手に入るじゃん」
「……倒せるのか?」
「どうでもいいだろ。攻略するわけないんだし」
 ゲーマーな帰依者たちの言葉にアズサが反応した。
「そうか……だからあいつはここを第一チェックポイントと…………」
「先生?」
 カヲルが尋ね返した時には、すでにアズサの中で方針が定まっていた。
「黄金の少年はコントロールルームで待っている。間違いない。私は彼に再会し、さらなる力を得なければならない。もちろん、おまえたちもだ」
 さらにアズサは、クリーチャーとの戦闘は修行の一貫であるという持論を展開した。
 もちろん、今この瞬間にでっちあげた屁理屈にすぎない。
 しかし、帰依者たちにとっては神の言葉と同じだ。
 その日からアズサは帰依者たち全員を引き連れ、狩りに出かけるようになった。ほとんど魔術師ばかりだったため、魔法による飽和攻撃で圧倒するという力押しによる経験値稼ぎである。もちろん、ドロップアイテムはすべてアズサに献上された。活躍した者にはアズサが一対一で“指導”してくれるため、特に女性プレイヤーや女性外装男性プレイヤーがはりきることになった。
 こうして時は流れ、十八日目を迎えることになる。
 アズサの“教団”は、わずか五日の間に帰依者六十九名を抱える実在の新興宗教そのままの形へと成長(?)していた。そればかりか一部の帰依者は先にコロシアムへと帰り、自治会執行部のメンバーとして活動してさえいた。
 帰還の名目は「いずれ訪れるアズサが戻る日の準備」というもの。
 ゆえにSHOPアイテムが有限であるという話も、発覚して間もなくアズサのもとに届けられることになった。
 だからこそ、
「……時が訪れたようだ」
 腰にマントだけを巻く半裸の恰好になっていたアズサが重々しい口調でそう告げた時、誰もが目を輝かせ、その時がきたことを喜んだ。
 なお――もはや余談にしかならないが――彼らが下着と腰にマントだけ(男性外装女性プレイヤーはさらしのように胸にもマントを巻いている)という恰好になったのは、十四日目に入ってからだ。理由は、アズサが「瞑想の際には余計なものを身につけるべきではない」と告げたからというもの。もちろん、それは単なる思いつきにすぎない。こういう恰好が、いかにも宗教的に思えたから、そう言ってみただけのことだった。


 十九日目――コロシアム南東寝床群は、もはや「群」とは呼べない状況になっていた。
 今や寝床のほぼすべてが北側に集中している。
 点在していた無派閥の寝床も、かなりの数が北側に移動していた。
「………………」
 南東寝床群の共有スペースで丸椅子に腰掛けていたジンは、驚くべき速さで変わってしまったコロシアムの状態を呆然と眺めていた。
 リコ派は今や三パーティ+αの二十三名が残るだけの弱小勢力に転落してしまった。残りはすべて、アズサ派に転向したのだ。そればかりか、無派閥だった者たちも、ほぼすべてがアズサ派に加わっている。
 原因は昨日の午後に行われた自治会の緊急会議にあった。
 思い出すだけでも目眩がする。
 緊急会議で、執行部は全員が辞任することを宣言した。同時に新たな執行部としてアズサと十二名の帰依者が推挙され、アズサ派と無派閥の圧倒的な支持を受けて承認された。そのうえアズサは、コロシアムの秩序を守るために、今後はSHOPの利用を完全な統制下に置くことを宣言。他の階層のSHOP――すでに第二階層のリカバリィポイントにSHOPがあることは知れ渡っていた――も、同様に管理するという方針を打ち立てた。そのため、今後は積極的に狩りを行い、これに参加し、秩序の維持に貢献した者にフード系アイテムの配当を増やすことを約束した。
 当然、リコ派は猛然と反発した。
 しかし、数の暴力に押し切られた。
 一方的な会議終了の宣言が成されても、リコ派以外の面々はアズサを非難しようとしなかった。むしろ、リコ派のことを「緊急事態なのに理想論ばかり口にする困った連中」と蔑む空気が強まっていった。
(……なんでかなぁ)
 ジンは溜め息をつきつつ、ガックリと項垂れた。
 リコの主張が理想論であることぐらい、ジンにも理解できる。いや、リコ自身も理解しているはずだ。それでも理想論を主張するしかなかったのは、アズサの危険性を指摘しても受け入れられそうになかったためだ……
「ジンさん?」
 顔をあげると、傍らにアケミが立っていた。
 少し表情に披露の陰がちらついている。そんなところまで再現してしまうPVの能力に、ジンは呆れると共に空恐ろしいものを感じた。
「……座りませんか?」
 ジンがそう告げると、彼女は軽く頷き、手近な丸椅子をひっぱってきた。
 ごく自然に触れあうほどの距離でジンの横に腰を降ろす。
 アケミの手は、スッとジンの左腕を掴んだ。ジンは無意識のうちに、そんな彼女の手に、自身の右手を重ね置いた。
 今は無性に、こうして感じ取れるアケミの体温が心地よく思える。
「これから……」
 アケミはポツリとつぶやいたが、それ以上はなにも言わなかった。
「そうですね……」
 ジンにもそう答えることしかできない。
 それでも、こうして寄り添うように並んで座るだけでも小さな安らぎが感じられる。
「……アケミさん」
 ジンは少しだけ顔を傾け、彼女の顔に視線を向けた。
 アケミは小首を傾げるような体勢で見返してくる。
 ジンは挨拶を投げかけるように、ごく自然に語りかけた。
「全部終わったら告白してもいいですか?」
「はい」
 即答だった。
 直後、ジンはボッと、顔といわず全身を真っ赤にして凍り付いてしまった。
 今更のように、自分が何を言ってしまったのか理解したのだ。
 一方、アケミは頬をほんのりと染めながらも、少し困っているようにも感じられる微妙な微笑みを浮かべている。それは遠回しの拒絶にも思えるが、そうでもないように思えた。理由はわからない。だが、ジンにはアケミが自分に対し好意を抱いていることだけは感じ取れた。
「リ、リアルで、会った時に、し、しますから」
 彼は顔をギクシャクと真正面に向けた。
「……はい」
 彼女は腕を掴んでいた左手を裏返した。重ねられているジンの右手の指をキュッと握り返す。ジンもまた、その手をドギマギしながら握り返した。
 これが精一杯だ。
 頭の中では「いっそ肩でも抱くべきだろうか」とか「彼女も待ってる」とか「ここで言うべき!」とか「キスぐらい」とか「寝床に連れ込んで」とか、様々な憶測と妄想が飛び交っているものの、目玉を横に動かし、彼女を盗み見ることさえできない。
 もう、ジンの中からは現状に対する不安のすべてが吹き飛んでいた。
 迷宮でのこれからのことさえ、彼の頭の中から――

「ジンさぁぁぁん!」

 リコの声が彼の桜色な葛藤を打ち砕いた。
「は、はい!」
 思わずアケミの手を強く握ったまま立ち上がってしまう。釣られてアケミも立ち上がった。慌てたジンは「す、すみません」と呂律の回らない舌で謝りながら彼女の手を離すが、アケミは空いている左手で口元を抑えながら、無言で小さく首を横にふった。
(うわぁ……)
 失敗したという思いが膨らむ。ジンの頭の中は泥色に染まった。
「ジンさん! アケミさん! なにも言わないで――」
 観客席最上段の場所を駆け戻ってきたリコは、途中まで口にした言葉を飲み込んだ。
 ジンは運動場を向いたままだが、アケミは口元を抑えたままスッと振り返ってくる。
 アケミは手を下ろし、唇だけを二度動かした。
 最初はアの形。次もアの形。
 それでもリコには、彼女の言いたいことが理解できた。
――ま、だ。
 それからアケミは、まるで子供がすねているかのように、唇をとがらせ、ちょっとだけ顎をひきつつ上目遣いで彼女を見上げた。アケミらしくもない子供っぽい仕草だ。
 少しだけムッとしたが、リコは同時に少しだけ嬉しさも覚えた。
 自分は子供扱いされている。
 でも、アケミなりに自分を同格のライバルとして認めてくれている。
 喜ぶべきか、悲しむべきか。
 行動に移していない自分が悪いのだが、でも、いざ動いてしまったらジンが困るのは目に見えている。それ以前に、ジンの心は、もう定まっているはずだ。だいたい、自分のような年下を相手にするはずが……
「あぁ、ボーイ。撤収だ、撤収。さっさとここからトンズラするぞ」
 気が付くとリチャードが残り少ない寝床に向かっていた。中から眠たげなボーイが現れ、なにかと悪態をついている。他のパーティのプレイヤーと語り合っていたワイズも、リコたちの帰還に気づき、何事かと尋ねてきているところのようだ。
(そうだ――)
 今はそれどころではないのだ――とリコは自らに言い聞かせた。
「二人とも、なにも言わないで寝床を片付けて」
「――えっ?」
 ようやくジンも勘付いたらしく、両眉をあげながら振り返ってきた。
 リコ、リチャード、リトルジョンの三人は、無駄を承知でアズサへの直訴に行っていたのだ。直訴の内容は「SHOP利用制限の緩和」だ。もともと自治会は「外部からの救助されるまでの間、プレイヤーたちが安心して待っていられる環境を自発的に整える」ことを目的としている。そのためにも、ある程度の自由は必要であるというのがリコたちの言い分だ。しかし、昨日の話しぶりからすると、これが受け入れられる可能性は限りなくゼロに近く、ダメで元々という気持ちで行ってきたはずなのだが――
「リコちゃん、それっていったい……?」
「コロシアムを出ることにしたの」
 リコはあっさりと、とんでもないことを口にした。
「あいつら、アイテムだけでなく寝床の家具まで制限するつもりだって言い出してるのよ。おまけに狩りは強制。どうしても戦えないプレイヤーも引っ張り出すつもりなの」
「えっ!? でも、それだと――」
 無派閥の中には精神的に不安定な者も多い。“謎の声”の言葉に怯え、戦うことはもとより、他のプレイヤーと接触することさえ怖がっている者もいるのだ。そんな「助けが必要なプレイヤー」を強引に連れ出すことなど、ジンからすれば正気の沙汰とは思えない。
「だから一緒に連れて行こうと思うの」
 リコはジンに笑いかけた。
「だって、そういう人たち、ジンさんの言葉なら聞いてくれるでしょ?」
 自派の拡大に勤しんだアズサ派とは違い、リコ派では、その手の「助けが必要なプレイヤー」に率先して声をかけてきたという経緯がある。特にジンは気むずかしいプレイヤーに声をかける特攻隊長のような存在だ。副隊長はアケミとワイズ。この作業に関していえば、リコやリチャードは端役にすぎない。
「でも……」
 ジンは点在する無派閥の寝床をチラチラと眺めた。
「……リコちゃん、それって駅長たちと完全に袂を分かつことにならない?」
「そのつもりよ」
 リコはハッキリと断言した。
「乗りかかった船だもの。こうなったらあいつらが見捨てる人たち、ごっそり私たちで引き受けるべきだと思うの。ジンさんは反対? 見捨てるべきだと思う?」
「まさか!」
「良かった。ジンさんならそう言ってくれると思ってたんだ」
 リコは破顔したまま、アケミに目を向けた。
「アケミさんもいいよね?」
「リコちゃんには負けられないもの」
 アケミは意味深にジンを一瞥してから笑い返した。
 やっぱり嬉しい反面、ちょっとムッとしたものを感じてしまう。
 我が事ながら、何かにつけて色恋沙汰と結びつけようとする女の業を感じずにいられない。いや、単に自分が子供すぎて、そう思えるだけなのかもしれないが。
「とにかく!」
 モヤモヤを振り払うように、リコは大声を張りあげた。
「あいつらは説法の真っ最中なの! ジンさん、アケミさん、寝床を片付けて、すぐ残ってる無派閥の人、全員に声、かけにいって! 大急ぎで!」


 十九日目、コロシアムから合計八十七名のプレイヤーが離脱していった。
 一方、自治会は十パーティを一グループとする大規模な狩猟班を組織し、魔法による飽和攻撃を主眼とした攻略行動に乗り出していった。これは予想以上の成果を発揮し、あるグループは調子に乗って――十七日目に物資補給に来ていた攻略隊から手にいれた地図情報を元に――第三階層へと特攻。そこで壊滅的な打撃を受けたばかりか、帰還途中にもクリーチャーに襲われ、どうにか帰りついたのが聖職者三名だけという大失態をおかすことになる。
 二十三日目、攻略隊から派遣された特使パーティが第二階層のリカバリィポイントに到着。そこに陣取る自治会の駐留班と接触し、事の次第がすべて明らかになった。
 二十四日目、階下における虐殺事件の顛末がコロシアムにもたらされる。
 二十五日目、自治会のやり方についていけなくなり離脱したプレイヤーを介して、新リコ派も同じ情報を知ることになる。なお、これと前後して自治会はストーンサークルの使用に関しても厳しい制限を設けることを決定。以後、離脱者が現れなくなる。
 こうして――

 攻略隊と黒い疾風の噂は、誇張されながら広がっていくことになった。





Chapter II " Politics "

End






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