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[27]
物語は五日前(十三日目)までさかのぼることになる。
「ちっ――こんなんで死ぬのかよ!」
第一階層北東部に広がるダークゾーンの一角、濃霧が流れ込んでこない一ブロック四方の小部屋の中で、アズサはいらだたしげに赤いボールオブジェを蹴飛ばしていた。
ディーリッドだったものだ。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
アズサは間近の壁をめったやたらに殴りつける。
拳と手首が痛い。だが、骨が折れるようなことはありえない。
なにしろ全ての外装は、ゲーム的ダメージが発生しない限り欠損しないのだ。肉体攻撃にダメージが発生する“グラップル”などのスキルをセットしない限り、殴りかかろうと噛み付こうと、相手を傷つけることができない仕様なのである。
だからこそ、アズサは思う存分、連れ込んだディーリッドに暴力をふるった。
生まれて初めて肉親以外の相手に殴りかかった。
馬乗りになり、問答無用で殴り続けた。
どんなに泣き叫ぼうが、謝罪しようが、泣き出そうが、一切無視して暴力を振るった。
彼はPVの素晴らしさを実感した。
通常、顔を殴ると鼻の骨や歯が折れてしまう。殴った本人の拳も無事には済まない。プロの格闘家が特殊なグローブで拳を保護するのは、何も相手を思いやってのことではなく、鍛えても守りきれない手の骨を守るための処置だ。しかし、ここではゲーム的なダメージさえ発生しなければ単に痛いだけで済む……
アズサは試しに、ディーリッドの耳を噛み千切ろうとしてみた。絶叫を張り上げていたところを見ると、痛みは存在するようだ。しかし、どんなに力を込めても噛みきることができない。せめて端のほうだけでも切ってみようとしたが、プツリとも切れることなく、耳元でうるさいまでにディーリッドが叫び続けるだけだった。
素晴らしい。
PVの可能性を実感したアズサの行動は、さらにエスカレートしていった。
ダガー(短剣)を取り出し、彼女の腹に突き刺した。
“ダガー”スキルをセットしていないため、ダメージは微々たるものだ。しかも、突き刺したところで、出血することもなかった。そのままズズズッと肉を引き裂いてみたが、切断面は淡く輝く赤い膜となるだけで中の様子は一切見えなかった。
気になった彼は、試しに膜の中に手を突っ込んでみた。
生暖かい、湿った感触があった。
内臓の感触だ。
視覚的に認識できないだけで、内蔵の触感は存在していたのだ。
さらに彼は、新しい仕様を発見した。ダガーで傷ついた内臓のオブジェが、瞬く間に修復されていく様子を指先で感じ取ったのだ。おまけに内臓を握り潰そうとしたが、ここでもソフトウェア階層の処理が介在しているらしく、“グラップル”スキルをセットしていないアズサには苦痛を与える以上のことができなかった。
彼は興奮した。
生きたままの人間の腹に手を突っ込み、グジャグジャにかき回す経験など、医者であろうと味わえるものではない。
アズサは狂った。
そこから先の光景は、人間が持ち得る残虐性には限界が無い、という事実を実証したものとなった……
しかし。
「くそっ! ちくしょう! なんなんだよ! なんで死ぬんだ、このブス!」
ダガーの刃が心臓を切り裂いてしまった。
途端、彼の耳元でシステムメッセージが静かに鳴った。
――CRITICAL HIT
ギョッとした時には、もう遅かった。ピタリとディーリッドの悲鳴が止んだかと思うと、彼女の躰は光りの粒子と化し、砕け散ったのだ。
残ったのは、彼女の全所持アイテムがつまった赤いボールオブジェひとつのみ。
アズサは戸惑った。
そして、自らのミスを悟った。
彼は大暴動の時も、他のプレイヤーを殺さずに住んだ数少ないプレイヤーのひとりだった。逃げていただけとも言うが、それもまた彼がアズサ八号として派閥の長になりえた理由のひとつでもある。
しかし、今の出来事で彼もPK(プレイヤー殺害者)の仲間入りを果たしてしまった。しかも『WIZARD LABYRINTH』ではストーンサークルで転移した直後は自動的にオーバーヘット・ステータスが表示される仕様になっている。
隠せない。
バレてしまう。
自分がディーリッドと階下に降りたことは、パーティメンバー全員が知っている。
今はパーティ登録を解除しているが、ディーリッドだけ戻らないことに彼らは気づいてしまうはずだ。そして、自分のネームカラーは赤く変わっている。その意味するところは、ひとつしかない。
アズサ八号がディーリッドを殺した。
「待て待て待て待て! 考えろ! 考えるんだ!」
アズサは全裸のまま狭い部屋の中をグルグルと回り始めた。
「誰かに襲われた――いや、無理だ。無理すぎる」
フード系アイテムを求めての強奪事件は、今や完全になりを潜めている。そんなリスクを犯すぐらいなら、クリーチャーと戦って資金を貯めたほうが手軽なためだ。今更、強盗が現れたなどといっても誰も信じてはくれない。
「あいつが嫉妬に狂って……」
彼は立ち止まった。
「嫉妬……」
うまく説得できそうな気がする。
ディーリッドは嫉妬に狂いそうな女だった。それに最近は、リコに対して異常なほどの敵愾心を見せている。これをうまく使えば、皆を納得させられるストーリーを作ることもできそうだ。
そうだ。なんとかなる。自分はアズサだ。駅長だ。
たかが粘着系の女が死んだぐらいで、妄想を具現化させる千載一遇のチャンスを捨て去っていいわけがない……
――ガガガガガッ
不意に部屋のドアがせり上がりはじめた。
アズサはギョッとなり、すぐさま、自分が全裸であることを思い出して慌てた。
迷宮はもともと音が響かない仕様になっている。中でもダークゾーンの濃霧は、一ブロック離れるだけで全ての音が吸収されるという徹底的な吸音仕様になっている。だからだろう、侵入者は姿を現すまで室内の様子にまったく気づいていなかったようだ。
間一髪で装備の装着が間に合う。
踏み込んできたのは、ハイティーンの男性外装を使う魔術師のプレイヤーだった。栗色の短い髪と、男性外装にしてはほっそりとした体つきが、どことなく中性的な印象を抱かせた。
彼に続くプレイヤーはいない。手に松明を持っているところを見ると、ひとりで狩りに出ているようだ。また頭に白い布を巻いていないところを見ると、自治会のメンバーでもないようだ。
ソロプレイヤーなのだろう。コロシアムには今現在も、自治会に入らず、ひとりで狩りや寝床作りなどを続けている独立独歩のプレイヤーが百人近くいる。おそらく、そうしたソロプレイヤーの一人なのだ――とアズサは一瞥するなり、見当を付けた。
「あっ……」
栗毛の男性外装プレイヤーは、有名人であるアズサが室内にいることに驚いたようだ。
ただ、次の瞬間、彼の顔は一気に青ざめた。
アズサは、見開かれた彼の目に向く先を追いかけてみた。
赤いボールオブジェが転がっていた。
(――しまった!)
失態に気づいた頃には、もう遅かった。
「うわぁあああああああ!」
栗毛の彼は、悲鳴をあげながら濃霧の中へと逃げ込んでいった。
「待て、この野郎!」
あわててアズサは後を追いかけた。
だが、濃霧の中は一ブロック以上離れると悲鳴すら響かなくなる。踏み出した頃には、もう悲鳴が掠れて聞き取れなくなっていた。アズサは、どんどん膨れあがる不安と絶望に突き動かされるまま、濃霧の中を小走りに歩き続けることになった。
◆
「ちくしょう……くそっ……なんで俺が……俺ばっかり…………」
十数分後、アズサは濃霧の中で項垂れていた。
壁に手をあてているものの、いったいどこにいるのか見当もつかない。濃霧の無い場所にいけばマップウィンドウで確認できるだが、それがどこにあるのかもわからない。いっそのこと、全力で走りたい気分にもなってくる。そんな度胸――真っ暗闇も同然の中で全力疾走する度胸があるはずもないのだが。
「くそっ……」
全てが理不尽に思えた。
だいたい、仮想現実世界に閉じこめられていることが腹立たしい。
「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……」
ノロノロと歩きながら、アズサは悪態をつぶやき続けた。
何もかもが腹立たしい。
どうして自分が、こんな事件に巻き込まれなければならないのか。
しかし、戻ったところで、待ち受けているのは、愚か者ばかりの世界だ。これほどまでに賢い自分のことを、誰一人として理解しようとしない。それどころか、家族はケダモノを見るかのような眼差しを向けてくる。他の者にいたっては、視線すら向けてこようとしない。
なぜ自分を賞賛しない。
なぜ自分の頭の良さを認めようとしない。
世界は馬鹿だらけだ。自分以外は全部馬鹿だ。現実世界とは、自分という優れた人間に嫉妬することしかできない、愚かで卑しい人間しかいない世界だ。だからこそ仮想世界は違うと信じたかったが――どうせ同じだ。ディーリッドの一件は、あの栗毛のプレイヤーの口から瞬く間にコロシアム中に広がる。そして、昨日まで崇拝していた連中が、明日には忌避と蔑みの眼差しを向けてくるようになる。
「くそっ」
彼は悪態をつき続けた。
「くそっ……ちくしょう……なんで……俺ばかり……俺だけが…………」
アズサは呪い続けた。
ノロノロと歩きながら、全てを呪い続けた。
不意に視界が開けたのは、それからしばらく経ってからのことだ。
顔をあげると、三×三ブロックの部屋に入り込んでいた。ドアはなかったらしい。部屋の中央には淡く輝くストーンサークルが鎮座している。おかしい。第二階層へのダウンゲートは、四方がドアだらけの一ブロック部屋が連鎖している北西部の最奥に存在するのだ。ダークゾーンの中に、この手の部屋は無かったはずである。
それなのに、どうしてここにストーンサークルが?
「おめでとう。キミが最初の到着者だよ」
誰かがパチ、パチ、パチという気のない拍手を鳴らしながら忽然と姿を現した。
黄金の甲冑に身を包んだ小柄な少年だった。
「……はぁ?」
もはや地が出ているアズサは、取り繕う様子もなく、顔を歪めながら不可解な少年をマジマジと見つめた。
巻き毛がかった短い黄金色の髪、白い肌、赤い瞳――顔立ちは小生意気な十歳前後の少年に見える。だが、股下が長く、兜の無い西洋風の甲冑を身につけているせいなのか、遠目にはもっと年上であるようにも見えた。
「それにしても面白い趣味だね。こういう外見が好みだなんて」
少年は妙なことを口走りながら自分の姿を改めて見直した。
「でも、悪くないね。あれかい、これがキミのアニムスなのかな?」
「……なんだ、てめぇ」
「さぁ?」
「………………」
アズサの目が細められた。この少年も自分を侮辱する愚かで卑しい者のひとりだと感じたのだ。
「まぁまぁ、怒らないで。僕は望まれたままに存在するだけのNPC(ノン・プレイヤー・キャラクター)なんだから」
「……NPC?」
「そうだよ。僕はプレイヤーじゃない。だから――こんなこともできる」
彼は指を鳴らした。刹那、少年の姿が一瞬にして変貌した。
そこに現れたのは全裸のリコだった。
十歳の少女の眩しいほどの裸体が、忽然と目の前に出現したのだ。
アズサはギョッとした。同時に、自分の変化にも気が付いた。
彼もまた全裸のリコになっていた。ヘラクレスの如き屈強な肉体はどこにもない。見下ろした先にあるのは、柔肌で形作られた微妙な曲線と陰部のわずかな茂みのみ。あまりの非現実的な状態に、アズサは慌てることも叫ぶこともできず、目を見開いたまま硬直してしまった。
「ボーナスだ。キミの望み、適えてあげるよ」
顔をあげると、目の前の人物は少年の姿に戻っていた。
だが、全裸のままだ。
しかも股間には不釣り合いなほどグロテスクな男性器が隆起していた。
「うわっ――」
アズサは身の危険を感じた。本能が危険を告げたのだ。
しかし、どういうわけか両足が動かない。まるで石になったかのように硬直している。いや、足だけではない。瞬きの一瞬で、全身が凍り付いたかのように固まっていた。
「それにしても人間っていうものは面白い生き物だよね」
全裸の少年はニヤニヤと笑いながらゆっくり、一歩ずつアズサに歩み寄っていった。
「加虐の愉しみが一番の望みなのかと思ったら、実は被虐こそ真の望みだなんね。あれだろ。本当は自分が幼女になって、壊れるほど弄ばれたかったんだろ? でも、理性がそれを邪魔をした。自分はもっと優れた存在なんだから、弄ばれるはずがない……そんな感じでさ。でも、もう大丈夫。僕が幼女のキミを……無力な君を、弄んで、苦しめて、罰を与えてあげるからさ」
アズサは悲鳴をあげた。
もはや恐怖以外に感じられるものが何もなかった。
◆
アズサの心は躰から遊離していた。何度も何度も陵辱されるうちに、抵抗の意志も失ってしまったのだ。気が付けば少年は三人に増え、リコの姿をする彼のすべてを陵辱し、痛めつけているのだが――それすら気にならない。津波のように押し寄せる激痛と快楽も、今の彼には遠い彼方の出来事のように思えた。
(……なんでだ?)
不思議な感覚に浸りながら、彼はボンヤリと自分を犯す少年を見返した。
よく見ると、それは少年では無かった。
現実のアズサ。松田俊介(まつだ・しゅんすけ)だった。
貧相な体つきをした中年オヤジだ。肋骨が浮かんだ躰や、握るだけで折れそうな手首などが痛々しく思える。射精する瞬間の、口を尖らせた顔つきにいたっては、滑稽すぎて笑えるほどだった。
(これが……俺…………)
彼は悲しみと憐れみを抱いた。
なんと独りよがりなセックスだろう。男性器も貧相なら、腰の動きも大したことが無い。膣壁に性器をこすりつけるだけのセックスだ。性の知識は豊富だと自負していたが、それがここまで無意味すぎると、滑稽さを通り越して哀れですらある……
(あほ、胸ぐらい揉むもんだろ)
ボンヤリとしたまま、彼は心の中でそうつぶやいていた。
すると“自分の姿をしたもの”は、骨だらけの両手で無遠慮に両胸を掴み上げてきた。
(馬鹿、もっと優しく)
その通りになった。
だが、まだ単に胸を揉んでいるだけだ。アズサは自分の偏った知識を呪いながら、実際に感じる感覚を通じ、こうするべきだという事柄をひとつずつ心の中でつぶやいていった。
まるで心が通じ合っているかのように、“自分の姿をしたもの”はすべてその通りにこなしていった。
奇妙な出来事だが、アズサは不可解さを感じなかった。
なにしろ相手は“自分”だ。
自分の思うことを“自分”がわからないはずがない。
(……そう、リズムをつけて)
気が付くと主観が切り替わっていた。
アズサは実像の姿の中にいた。相手も変わっていた。
若かりし頃の母親だった。
(ママ……)
結びついている相手は、呼びかけに応じるように笑顔を浮かべ、唇を重ねてきた。
アズサは無我夢中で若い頃の母親の姿をした女性を抱いた。
一度も抱きしめてくれなかった女性。
母乳も与えてくれなかった人。
頭すら撫でることなく、物心付いた頃には家に寄りつかなくなった不在の存在。
(それが被虐の理由?)
母親が尋ねてきた。
(だって……ボクが悪い子だから……だから……だから…………)
(しゅんちゃんはいい子よ。愛してる)
(ホントに?)
(愛してるわ、可愛いしゅんちゃん)
(ホントに?)
(しゅんちゃん)
(ママ……)
(しゅんちゃん……しゅんちゃん……しゅんちゃん……しゅんちゃん…………)
彼は胎児のように丸まった。その躰は徐々に若返り、壮年から青年へ、青年から少年へ、少年から幼児へ、幼児から赤子へと戻り――ついには嬰児にまで若返り、女性器の中に入り込んでいった。
(ママ……)
そこは母親の子宮の中だ。
松田俊介は完成された世界の中心で、平穏なる安らぎの眠りに落ち込んでいった――
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