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[02]


 現在、一般的な人工知能は多重シンボルリンク方式を採用している。たとえば「リンゴ」というシンボルを何らかの形で認識した時、そこからリンクしている「果物」「赤い」「丸い」「知恵の実」などのキーワードを引き出し、それぞれのシンボルとリンクした別のシンボルを参照、各シンボルをランク付けし、これらの総体として、初期認識されたシンボルを把握する――という手順を踏むという感じだ。実際にはもっと複雑で緻密な計算が行われているのだが、概念的にはこんな感じで捕らえておけば、まず間違いない。特にニューロチップの普及に伴い、安価に高速度の計算が可能になった昨今、根本原理の見直しは行われなくなり、よりコンパクトで高速度なリンクの方法ばかり模索されている。困った話だ。
 まぁ、それだけ人工知能が完成されてきたということなのだろう。
 自動車の基本機構は今も昔も、大きく変わっていない。それと同じことなのだ。
 だが、自動車をエアーカーにするには、根本的に考え方を変えなければならない。結果が同じ「交通と輸送の道具」であっても、内部構造に関する概念は根本から違っている。同様の変革を、俺は自分の力で人工知能の分野で成し遂げようと夢を見ていた。
 『脳神経網のエミュレートによる人間に近い人工知性の実現』――それは俺が生涯の目標として掲げている一大研究テーマだ。
 これを実現するためには、数々の難題をクリアーしなければならない。
 もっとも、今、この瞬間にクリアーしなければならない問題はPVという道具を俺自身がしっかりと把握することだった。
「さーて、なにができるのやら……」
 俺は一週間ほどかけ、じっくりとPVの仕組みを調べてから改めて大雑把な作業予定をたててみることにした。
 PVは完璧だった。
 装置を付け、ダイブ(と葉山京介は表現していた)してみると、ログハウスと全く同じ世界に俺は転移した。最初は使用方法を間違ったのかと思った。しかしVR空間内で目覚めた時には、ポッドの中で着込んでいたはずのメッシュスーツもHMDも消え去っている。裸のままログハウスの外に出てみると、外に出ればいつでも見えたはずの近くの島々が嘘のように消え去っていた。
 VR空間の孤島は、本当の意味での孤島と化していたのだ。
 しばらくの間、俺は人工知能を忘れてPVの性能を確認する作業を続けた。
 外見データは俺の素性を調べる間に何らかの形で採取したらしい。その証拠に、ヘッドハントされる当日に切った剛毛の黒髪は、PV空間の中だと幾分が長く、肩をさらさらと刺激するのでうざったかった。
 リアルに戻った俺は、俺の外見データをFV環境で修正する方法を考えた。
 ワークステーションには、これもまた葉山京介が開発したHMDとデータグローヴが付随している。性能は非常に良い。特に網膜投影時の解像度と、首を動かした時のレスポンスは最高だ。大学で研究していたHMDなど、子供のオモチャに思えてしまう。それを使いながら、俺はまず、外見データを製作するツールを作成することにした。
 完成までに一週間かかった。だが、なかなか良いツールができた。
 できあがったデータを葉山京介にメールすると、すぐに電話がかかり、
〈やはり私の思った通りだ。君には才能がある。自信を持ちなさい〉
 というお誉めの言葉を貰った。
〈これが最初の成果だね。何か欲しいものはあるかい?〉
 俺は即座に「コック」と応えた。
 一応、ログハウスにはキッチンがあるし、地下室には一年分の食料が備蓄されていた。だが、俺の手料理は正直言って、自分でも顔をしかめるほどまずい。
〈ふむ。今日中に手配しよう〉
 その日の夜、あのフライトアテンダントのお姉さんがやってきた。
「合格したのね」
「えっ?」
「はい、これ」
 差し出されたDVDの中には、俺が作ったツールなど鼻で笑い飛ばせそうな高性能な外見データの作成ツールが記録されていた。
 どうやら知らず知らずのうちに、俺は試験を受け、それに合格したらしい。
「なんだかなぁ……」
 Tシャツにバピューダパンツという姿で、俺はワークステーション前の椅子に深く座り込んだ。


 専属の家政婦になった女性は笹岡由美(ささおか・ゆみ)という今年で三一歳になる日本人だった。
「葉山さんには去年スカウトされたわ。PVプロジェクトのメンバーをサポートするプロが欲しいっていわれたの――あっ、そうそう」
 彼女は一枚の書類を俺に差し出した。
「これにサインしてくれる?」
「なんですか、これ」
「私との契約書」
 首を傾げながらザッと目を通した俺は、ある項目の内容に仰天した。
「こ、これって!?」
「読んだ通りよ」
 彼女は平然と応える。
「所定の金額を振り込んでくれるなら、夜の方もお相手するわ」
 長い黒髪とグラマラスな胸元が特徴の笹岡由美さん。
「いや、でも……」
「先に断っておくけど、私の担当はあなたを含めて三人。それでもいいなら、どんなプレイでもお相手すわ」
 やばい。もう興奮してきた。
 絨毯に座り込み、真正面から相対しているせいで……なんというか、まずい状況だ。
 由美さんはクスッと笑う。
「ごめんなさいね、こんなおばさんが相手で。あなたでプロジェクトメンバーは最後だから、代わりはいないんだけど……葉山さんに言えば、代わりを探してくれるはずよ」
「いえ、その……」
 彼女が島を訪れるのは一週間のうち三日。事実上の二泊三日で、今日はこのまま、この島に泊まる予定だと最初に言っていた。
「……よろしくお願いします」
 俺は正座になり、深々と由美さんに向け、頭を下げた。
「こちらこそ」
 彼女も正座になり、頭を下げてきた。


 島と外とは基本的に通信できない状況にあった。だが、他のプロジェクトメンバーが住む島々とは、エクサbps級ケーブル――後に冗談半分で『I−LAN(アイラン)』と呼ばれるようになる――で結びついているため、FVやPVを通じ、TV電話で語り合うことができた。
 はっきり言うが、俺は場違いな存在だ。
 俺以外のプロジェクトメンバーは、いずれもネイチャーやサイエンス・オンラインで最低一度は名前が出たことがある超が付くほど優秀な人々ばかりだったのだ。いずれも英語が話せたため、俺は度下手なジャパニーズ・イングリッシュで彼らの得意分野についていろいろと質問した。その話を聞くだけでも、大学の四年間なんてカスにもならないくらい勉強になる。特にデバイスそのものを研究しているグループの話は、不完全だった俺の医学関係の知識を補い、研究の参考になった。
 ちなみに、家政婦の話題はタブーであるらしい。
 さもありなん。
 もしかすると、今、話し込んでいる相手が兄弟かもしれないのだ。それにグループには女性もいる。果たして彼女たちにあてがわれた家政婦は美青年なのか、それとも存在しないのか――そのあたりも気になったが、日常生活についての話題が全般的にタブー視されていることだけは理解した。
 ただ、人工知性を研究する者は俺一人だった。
 いったい葉山京介は何を考えているんだろう?


 由美さんが大量の荷物と書類の束を手に島を訪れた。四日ぶりの来島だ。荷物は俺が借りていたアパートの部屋にあった全てのものだが、書類は大学を退学したという証明書をのぞくと、ところどころが黒墨で消された移民手続きの証明書など、なんだかよくわならいものが多かった。
「一時的にこの島がある国の国民になるってことよ」
「オセアニアのどこかですよね?」
 彼女は笑うだけで答えなかった。
 まぁ、太陽と時間から概算できる緯度経度を思えば、ここがオーストラリア大陸の北側あたりであるのは、まず間違いないはずだ。
「それより何か食べたいものある?」
「由美さん」
 俺は健全にして健康な二三歳の日本男児だ。これから彼女が帰るまで、仕事に手がつかないとしても、それはそれ、許してもらえるだろう。


 来島から一ヶ月が過ぎた。気分転換として始めた島の外周のランニングを終えた俺は、シャワーを浴び、目覚めてきた由美さんと風呂場で絡み合ってから、朝食を済ませ、デバイスに関する勉強を再開した。
 そう、勉強だ。
 研究は遅々として進んでいない。なにしろ俺の無知ぶりが徹底しているためだ。脳磁気を複雑系に基づく数式でどのように抽出し、電算処理にかけるのか。その仕組みを理解するだけで、三日ほどの時間を必要とした。一方、圧感と熱感を欺瞞する仕組みに至っては、今にいたっても明確に理解したとは言い難い。
 強いて言えば――PVは理論上、HMDだけで処理できる可能性が高いというぐらいは理解できた。現在はHMDの磁気デバイスを改良しているところらしい。微細な電気信号をメッシュスーツに流し、皮膚感覚を誤魔化しているが、それを不要とする時期も遠くないかもしれない。
「うむむ……」
 FVで見える空間いっぱいにウィンドウを展開した俺は、椅子の上であぐらをかき、腕を組みながら考え込んだ。
 やはりチンプンカンプンな情報が多い。
 アンデルフィア=ローカル現象ってなんだ? 聞いたこともないぞ?
「ユーチ。そろそろお昼よ」
「あっ、はい」
 俺はHMDを外し、テラスへと向かった。
 日本はそろそろ冬に向かおうかという頃合いだが、逆に南国の太陽は熱さを増している。外で食事にするには格別な季節だ。
「どうかした?」
「いえ、こっちは夏も近いから泳ぐのも悪くないかなぁって……ダメなんですよね?」
 海に出ることは禁止されている。
 吟味に吟味を重ねた上で百名ほどのプロジェクトメンバーを選出したとはいえ、そこは人間のやること。ここを抜けだし、葉山京介の最先端技術を、様々な企業に売りつける危険性がある。
「私が一緒なら平気よ。泳ぐ?」
「じゃあ、食事のあとに」
 昼食を平らげ、軽く調べものをしたあと、俺と由美さんは砂浜に向かった。
 水着なんてものがあるはずがない。
 まっぱだかになり、思う存分、海を楽しんでから、俺と由美さんは砂浜で肌を重ねた。なんか由美さんがいると、俺はセックスアニマルになってしまうらしい。まぁ、青少年が大人の女性に溺れるのは健全な証ということで……


 三ヶ月目。俺はまだ、人工知性の開発を始めていない。そのせいか、他のプロジェクトメンバーからは「無能」のレッテルを貼られ、半ば孤立した形になっている。葉山京介からの連絡もないし、由美さんも特に言ってこないが……
 少しナーバスになっている。
 いくらTV電話越しとはいえ、
〈黙れ! この能無し!〉
 と言われてへこまない人間はいないだろう。特に自らを技術者であると考えている人間なら。
「よし……」
 俺はデバイスに横たわり、VR空間にダイブした。とにかく、なにか成果を出さなければならない。
 すでの他のメンバーが様々なツールを生み出している。それを参考に、俺はまず、従来の多重シンボルリンク型を模した人工知性の開発に挑戦してみた。
 すぐ、壁にぶちあたった。
 なんてことはない。ツールの問題だ。自作するしかないらしい。
 数日後、由美さんが来島したが、俺は食事と睡眠時以外はデバイスに横たわり、一心不乱にツール作りに励んだ。
 面白い。
 俺はPVに秘められた可能性を実感し、興奮した。
 当初のPVは、単純に仮想現実世界の中でFVと同様の操作ができるという程度の、次元の低いOSで動いていた。それは今も変わっていない。違いといえば、FVで目にできるオブジェクトやウィンドウを、四方八方、全ての空間に配置して、より自由にさまざまな操作が可能になったという程度だ。
 だが、これではダメだ。
 自動車をエアーカーにするには、根源から考えを改めなければならない。
 俺は大学時代に個人サイトで公開していたヴォイスコマンドシステムをPVの中で再現してみた。存在しないマイクに向かい、定められた言葉を告げれば、それぞれのコマンドに応じたマクロが作動するという程度のプログラムである。
 すでにPVの全システムを洗いざらい調べていた今の俺からすれば、一日仕事で終わるような簡単な作業だ。
 VCS(Voice Command System)のバージョン1が完成した。
――ピピッ
〈ユーチ、もう遅いわよ?〉
 傍らにウィンドウが開き、由美さんが穏やかに語りかけてきた。
「もう少し頑張ります。挽回しないとまずいんで」
〈そう……でも、あまり無理しないでね〉
 俺は翌日の四時までかけ、対応コマンドを増やしたバージョン2を完成させた。
 気が付くとPVの中で寝ていた。
 起こしてくれたのは由美さんだ。HMDとメッシュスーツを脱がし、風呂場に連れ込んで、俺を後ろから抱きしめつつ、湯船に浸からせてくれていた。
「起きた?」
「すみません。なんか、迷惑かけたみたいで……」
「なに言ってるのよ」
 その後、俺は彼女のサービスを受けた。
 『女にとって男は一時的にあれば良いだけの存在だが、男には女が必要不可欠な存在だ』という説がある。生物学上の仮説だ。それを俺は実感した。例え仕事と割り切って相手をしてくれているとしても、由美さんは俺に、必要不可欠な存在に思えた。

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